巡視船の外観デザインを調べてみるシリーズの第3弾です。
はじめに
【問題】
これは【巡視船せっつ】の写真ですが、
海上保安庁の巡視船には、
斜めのマークが描かれています。
このマークには
どんな意味があるでしょうか?
答えはこちら!
◎S字マーク
S字マークは、海上保安庁の業務であるSecurity、Search and Rescue、Safety、Surveyと、モットーであるSpeed、Smart、Smile、Serviceの、それぞれ頭文字である”S”を図案化したもので、巡視船や航空機に紺色で描いています。
『海上保安庁公式パンフレット』平成30年(2018年)3月作成版p7より
みなさんご存知でしたか?
巡視船のマークには、
8つの意味があったなんて。
これでまた海上保安庁に
くわしくなっちゃいましたね☆
それではまた~。
(^◇^)/
本当の”はじめに”
…いやいや!
Σ(゚Д゚)
「くわしくなっちゃいましたね~☆」
じゃないんですよ。
(自分ツッコミ)
この公式パンフレットの説明だけでは、一体なぜこのマークが描かれるようになったのか?
どうしてこのマークになったのか?がわかりません。
そもそも、
海保のフネ!と言えばこのマークがイメージされるくらい、重要なデザインパーツです。
たとえば
この白い船のイラストも…
⇩
斜めの線をつけるだけで、
それらしくなりました!
おそらく巡視船を最も巡視船らしく見せているのがS字マーク。
それにも関わらず結構ナゾが多いんですよ。
ということで、
巡視船の外観デザインを考えるシリーズ第3弾として、今回はS字マークについて調べていきます。
正式名称はS字章!
まず最初に。
S字デザインの正しい名前は「S字章」です!
以前の記事でもご紹介したとおり、S字章は海上保安庁の『告示』によって定められています。
そしてこれを船艇の水線上の外舷に表示することになっているわけです。
なお、S字章の規定は『海上保安庁告示 第165号』で初めて登場し、何回かの一部改正を経て現在に至っています。
※この告示は『官報 号外第83号』昭和59年(1984年)7月20日(金曜日)p1に載っています。
というわけで、
規定上の正式名称は「S字章」で、海保公認の一般的な呼び方が「S字マーク」だと言えるでしょう。
なぜS字章は作られたか?
前述の『告示』によって、昭和59年(1984年)にS字章が制定されたことはわかりました。
ただ、ここには制定の理由までは書いてありません。
あらためて、
なぜS字章は作られたのでしょうか?
その制定の経緯はどのようなものだったのでしょうか?
それを調べるために、まず昭和59年前後の『海上保安白書』を読んでみました。
しかし、制定経緯どころかS字章に関する記述そのものが白書に無かったのです。
そこで手がかりとなったのが【第6管区海上保安本部】が作成した定例記者会見での発表資料(PDF)。
六管豆知識
『海上保安庁船艇の船体表示について』第六管区海上保安本部HP『海上保安庁船艇の船体表示について』平成24年(2012年)12月発表分より
S字章
海上保安庁の所属であることの識別を容易にするとともに、その活動の状況を国民に周知し、現場職員の士気の高揚を図るため、昭和59年7月21日から、巡視船、航空機等に海上保安庁を象徴する標識(紺青色のS字章)を表示しました。
この「S」には、当庁の使命として課せられた「安全確保」の安全「Safety」をメインに当庁の主要任務である「Search and Rescue」及び「Survey」並びに当庁職員の職務の執行姿勢である「Speed」「Smart」「Smile」及び「Service」の合計7つの意味が込められています。
※この資料と同じ内容が、平成27年(2015年)2月発表分の『海上保安庁船艇の船体表示について』でも説明されています。
この資料では、
・海上保安庁の所属であることを識別しやすくするため
・活動を国民に周知することで現場職員の士気を高めるため
…とされています。
なるほど、
そうだったのか~とは思うのですが。
この説明ではいまいちピンときません。
(;´・ω・)?
そもそもS字章が作られる以前から、巡視船艇には海上保安庁旗が掲げられ、煙突にはコンパス章がありました。
どうして、
これだけではダメだったのでしょう?
また、活動状況の周知が職員の士気にどう関係するのでしょうか?
特殊救難隊と羽田沖墜落事故
そこでさらなる手がかりとなったのが、住本祐寿氏(元:海上保安官)と川口大輔氏の共著『海上保安官』という本です。
この中でS字章制定のきっかけとして、昭和57年(1982年)2月9日に発生した【日本航空350便墜落事故】を挙げています。
これはおそらく「日航 逆噴射事故」と言った方がわかりやすいでしょう。
著者によると、
当時の制服や救命胴衣には【海上保安庁】の表示はなく、船艇も白い船体のみでJCGロゴもS字章もなかったとのこと。
その一方で、当時から羽田空港敷地内には【羽田特殊救難基地】が存在しており、海上保安官が事故当初から救助活動を行っていたそうです。
しかし。
海保の名称を前面に出せ!
住本祐寿・川口大輔『海上保安官―日本の海を守る精鋭たち―(改訂版)』2011年5月15日第2版発行p82-83 並木書房
当時は今のような「海上保安庁」を示す表示がないため、真っ先に事故現場に到着したにもかかわらず、メディアの目にとまらず、海保の本庁の幹部でさえその活動を認識できず、逆に羽田基地に対して、「なぜ救助活動を行わなかったのか」と問い合わせを受けたほどでした。
この一件から、それまで宣伝活動や広報活動をしてこなかった海保ですが、船体にS字マークを入れ、船体および職員の着る救命胴衣や作業衣に「海上保安庁」の名称を入れることが決まりました。
この事故が特殊だったのは、旅客機が墜落した地点が羽田空港・滑走路直前の浅瀬だったこと。
そのため機体全体が沈没することはなく、生存者はその浅瀬を漂流することになりました。
また、
現場が沿岸部だったこともあり地元の漁船、海保・警察・消防の小型艇が速やかに集結し救助を行ったそうです。
特にこの三機関は「見事に連携した作業を実施」したと回顧する記録もあります。
(「海上保安庁特殊救難隊」編集委員会編『海難救助のプロフェッショナル 海上保安庁特殊救難隊』成山堂書店 2016年(平成28年)11月28日初版p154-157より)
このように救助活動そのものは問題ありませんでした。
ところが。
現場に多数の組織・人間・舟艇が入り乱れたことで、報道写真や映像からはどれが海保なのかを見極めることが困難となったのです。
飛行機事故(昭和57年)▷羽田沖墜落事故(機長の逆噴射) | ジャパンアーカイブズ – Japan Archives (jaa2100.org)
実際、
私も当時のカラー写真や、YouTubeに投稿されているニュース動画を観たのですが、よくわかりませんでした…。
(;´・ω・)カイホはドコ…?
↑映像の中で、黒いウェットスーツを着ているのが特殊救難隊員。(公財)海上保安協会公式Xより
おそらく、
小坂徳三郎運輸大臣や、
妹尾弘人長官など幹部の方々も、やきもきしながらテレビ中継を観ていたのではないでしょうか。
海上保安官たちの士気
この事故の一か月後。
庁内で開かれた検討会ではやはりこの点が指摘されました。
当時の『海上保安新聞』に次のように報道されています。
羽田沖の救助活動の教えるもの
救難機材などには海保庁のネームを(略)
(財)海上保安協会『海上保安新聞』第1653号 昭和57年(1982年)3月4日(木曜日)3面
これらの果敢な救助活動は、あとになって一部の新聞に報道されはしたが、あまりにも海上保安庁の出動が早かったがゆえに、テレビの視野からタイミングがずれたまま報道されなかった。
しかも時間の経過につれて事故現場は修羅場と化し、救助隊員は、どれが海上保安官か判然とせず、ただ画面には消防官や警察官のグループばかりが目立った。
対策本部の解散後開かれた部内の検討会では、(略)今後に対応すべき問題点を探った。
その一つに、多数の救助機関が出動した場合 海上保安官を明示する海上保安庁名を大書した救難機材等が大いに痛感される、と強調された。
問題となったのは海上保安官の存在が見えなかったこと。
このことは海上保安庁内で大きな波紋を呼んだようで、特に同事故の対策本部が置かれた【第三管区海上保安本部長】は次のように語っています。
植村三管本部長語る
“現場職員の士気”を見た
泥まみれの活動をアピールしたかった(財)海上保安協会『海上保安新聞』第1653号 昭和57年(1982年)3月4日(木曜日)3面
反省材料としては、活動状況とは別に、あまりにも立ち上がり早かったために、テレビ等マスコミに表われなかったが、泥まみれの現場職員には気の毒と思う。
その意味で、ゴムボートやヘルメット、ウェットスーツには「海上保安庁」と大きく名を入れたい。これは本庁にもお願いしておいた。
今後は大規模地震対策など、他省庁との”混合救難”が多くなろう。そういう観点に立てば、当然マスメディアを利用した行政ということも必要であろう。
そして、
本部長はこうした反省点を指摘しつつも、「現場職員の士気が高いことが実証されて本部長として非常に満足である。」と部下職員をほめたたえています。
ひるがえって、
同事故に尽力した職員が世間から称賛されないどころか、出動していないとの誤解を受けたのだとしたらこの旺盛な士気も下がろうというもの。
そこでまず手近な救難機材などから手を付けることになったようです。
シンボルマークはSAFETYの “S”
ここからは、
S字章の制定から船体に描かれるまでを追いかけていきます。
まず、事故から2年後:1984年(昭和59年)の『海上保安新聞』から。
もっとイメージ・アップしよう
(財)海上保安協会『海上保安新聞』第1758号 昭和59年(1984年)6月7日(木曜日)1面
シンボルマークに「S」
大型船、航空機に表示
海上保安庁では、かねて広く国民に対するイメージ・アップをはかるため、いくつかの実施案を検討していたが、その第一弾として巡視船、航空機等に一見して海上保安庁所属と分かる新標識を表示することを決め、このほどそのデザイン(案)を船艇、職員をはじめOBからアンケートをとることになった。
海上保安庁は、大規模災害が発生した際、他の機関と合同して救助作業を行う場合など、海上保安庁の所属であることの識別を容易にするとともに、活動状況が国民に周知されるよう、昨年末に巡視艇、消防艇等の小型船舶と救難防災資器材に「海上保安庁」名を表示、広報面での効果を上げるのはもちろん、現場職員の士気の高揚をはかってきた。
その後、引き続き海上保安庁の中心勢力である巡視船、測量船、航路標識測定船等の船舶百二十八隻と航空機五十八機についても、「国民に十分アピールするような共有イメージの標識の表示が必要」との要望が高まり、昨年十二月から本庁に総務部長を委員長とする「船艇および航空機の標識検討委員会」を設置し検討してきた。
この記事で注目したいのは、
「大規模災害が発生した際、他の機関と合同して救助作業を行う場合など」を想定して、S字章などの試みが始まったという部分です。
このシチュエーションは、まさしく羽田沖墜落事故を念頭に置いたものではないでしょうか。
さらに記事は続けて、
新デザインの意味を紹介しています。
使命感を表徴するデザイン
(財)海上保安協会『海上保安新聞』第1758号 昭和59年(1984年)6月7日(木曜日)1面
紺青地
まず、標識デザインを考えるに当たり
①新たに制定する標識は、船艇、航空機共通のイメージのデザインとする
②標識を表示する対象は、船艇は原則として庁名表示を行っていない船艇、航空機は全機種とする
③標識の表示箇所は、船艇は両舷側面、航空機は機体の適当な箇所とする
④標識は紺青色を基調とする色彩とする
⑤船艇の煙突マークは、長年慣れ親しんだシンボル・マークとして残し、航空機の尾翼部にもコンパスマークを表示する―
等を基本として検討した結果、標識デザイン(案)を選定した。
デザインは、海上保安庁の使命として課せられた「安全確保」の安全、SAFETYのSをシンボルマークとして強調、色彩は庁旗の紺青色を基調としている。
現在この新標識デザインについて、部内職員および関係団体の役員、OBなど約五百人余を対象に、意見聴取を行っており、これらを参考にして、六月中に新標識デザインを決定、今年度から船艇、航空機のドック入り等の整備に合わせ、巡視船は約一年半、航空機は約三年がかりで段階的に実施することにしている。
ここでも注目したいのは、
”S”は安全(セーフティー)を強調したデザインであるとの記述。
これもやはり羽田沖墜落事故を意識しているように感じられます。
そしてこの6月の記事の後、
7月に巡視船にS字章が施されました。
さっそう!S字マーク
(財)海上保安協会『海上保安新聞』第1774号 昭和59年(1984年)10月4日(木曜日)1面
イメージアップ作戦第一歩
海上保安庁は、さきにイメージ・アップ作戦の第一弾として、巡視船、航空機等に新標識(S字マーク)を表示することを検討していたが、そのデザインも決まり七月二十八日、小樽保安部所属の1000トン型巡視船「えさん」を皮切りに、現在二十一隻の巡視船が船首に紺青色のS字マークもくっきりと第一線で活躍している。
(中略)
対象となる巡視船等は百二十九隻で、このうち「えさん」をはじめ、すでに二十一隻が済み、九月二十七日就役したヘリコプター搭載型巡視船「せっつ」のほか現在ドッグに入っている十隻も間もなく第一線に登場することになっている。
以上のように、
当時の既存船【PL102えさん】や、新造された【PLH07せっつ】を第一陣としてS字章が描かれるようになったというわけです。
国際交通博覧会へ巡視船を派遣(61.5)
61年5月から10月までカナダ最大の港湾都市であるヴァンクーバーにおいて、世界50数か国が参加して、陸、海、空の交通すべてを網羅した国際交通博覧会が開催されている。
この一環として、5月12日から18日まで「SAR週間」(捜索救助特別週間)が設けられ、海上保安庁ではヘリコプター搭載型巡視船「せっつ」及び練習船「こじま」を当地へ派遣し、大規模な捜索救助実演を実施したほか、人命救助に関するシンポジウム、セミナー、カッター競技、人命救助競技等に参加した。『昭和61年版 海上保安白書』p43 1986.9 国際交通博覧会に参加中の巡視船
■海洋レジャーの安全確保
●ボート天国(ボート天国によりボートセーリングを楽しむ愛好者)
海上保安庁50年史編纂委員会事務局『海上保安庁50年史』口絵 1998.12
海洋レジャーの安全を確保することにより、その健全な発展に資するための施策の一環として、ボート天国を昭和63年より実施している。
おわりに
このS字章のデザインについて、『海上保安新聞』ではアメリカ沿岸警備隊のマークと比べた上で、次のようにコメントしています。
派手さはないが、
海上保安庁らしくすがすがしい。
白い船体に紺青色のSマークが、
一日も早く国民の間に
定着してほしいものである。
『海上保安新聞』第1758号
昭和59年(1984年)6月7日1面コラム欄「海流」より
この期待どおり、今や海上保安庁の船・飛行機といえば、あの斜めのS字!と知られるようになりました。
そして、
そのシンボルマーク「S字章」を掲げた巡視船たちは、今日も日本や世界の海で活躍しています。
ベトナムに向けて出港する【せっつ】
【参考資料】
5 東京湾における日航機墜落事故の発生と救助状況
海上保安庁編『昭和57年版 海上保安白書』p49-50
57年2月9日、福岡発東京行きの日本航空旅客機(乗客166人、乗員8人)が、東京国際空港に進入中、同空港手前の海上に墜落し、24人が死亡、150人が負傷するという事故が発生した。
午前8時50分頃事故発生情報を入手した海上保安庁は、直ちに特殊救難隊員を乗せたヘリコプター2機を羽田基地から出動させるとともに、巡視船艇43隻、航空機7機及び潜水員25名を発動させた。さらに、第三管区海上保安本部に「羽田沖航空機事故対策本部」を設置する一方、海上自衛隊横須賀地方総監部に対し自衛艦等の災害派遣を要請した。
午前9時過ぎ、海上保安庁の特殊警備救難艇が最初に事故現場に到着、乗客、乗員の救助活動を開始するとともに前記ヘリコプターが現場上空に到着、救命ゴムボート4個を投下し、特殊救難隊員は海上に降下して救助作業に当たった。その後相次いで現場付近に到着した巡視船艇・航空機等とともに、警視庁、東京消防庁等と協力のうえ、救助、捜索及び遺体収容作業を行った。
【参考動画】
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