大久保武雄 初代長官と海上保安庁旗

ウミネコとコンパス章

毎年5月12日は【海上保安の日】。
この日は海上保安庁の開庁記念日であり、海上保安庁の旗が庁舎に掲揚された日でもあります。

今回はこの海上保安庁旗について解説します。

はじめに

はためく国旗と・・・?

青空の下、
国旗とともにはためく海上保安庁の旗。

これ、何がモチーフになってるか

知っている人いますか??

こんなの簡単だよー、
コンパスのマークでしょー?
方位を知るためのコンパスを

図案化したものなんだよね☆
(^_^)

…いえ、それではありません。
これのことです。


この菱形ひしがたは何を表しているのでしょうか?


( ゚Д゚)…。

本当の”はじめに”

ごめんなさい。

冒頭から少しイジワルな質問でしたね。

みなさんもご存知の通り、海上保安庁の旗(庁旗)は方位を知るための道具:羅針盤コンパスを図案化したものです。

そして、そうである以上おそらく頂点の◇は北極星を表しているものと推測されます。

北天にあって不動の星と呼ばれたこの星は、古来より北の方角を示す目印であったからです。

南極調査船【宗谷】に搭載されているコンパス


さて。

巡視船デザイン史をひもとくこのシリーズ。

これまで、

JCGロゴ
S字章
コンパス章
紅線二条

…と様々なデザインパーツを取り上げ、ご紹介してきました。

図らずもそれは海上保安庁75年の歴史をさかのぼる試みでもありました。

今回はついに巡視船デザイン、もとい海上保安庁デザインの原点である庁旗について考察してみます。

まさに海上保安庁と言えばコレ!というシンボルマークなのですが、冒頭の北極星のように改めて調べてみると色々と謎や疑問も浮かんできました。

それでは、
この庁旗とともに海上保安庁、そして船艇デザインの原点をふりかえってみましょう。

巡視船デザイン史シリーズ第6弾の始まりです。

サクラでも星でもなく…

まず、庁旗のデザインはどのようにして決まったのか?

これについては例によって大久保武雄 初代長官『海鳴りの日々』に記述があります。

桜と星と錨の追放

海上保安庁の旗の意匠をきめるについて、GHQは、「桜と星と錨」を使ってはならぬ、また赤色もいけないという注文をした。

桜と星と錨は、昔の陸海軍の徽章であったので、それを使わせまいという考えがあったようだ。

それで、海色の紺青の地に、船のシンボルであるコンパスを使うこととした。

また海上保安庁は治安の任務をもつので、警察マークの旭光を、コンパスの間からのぞかせた。

紺青の地にコンパスを白で染め抜いて海上保安庁のスマートな旗ができあがった。

大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』p72 海洋問題研究会 1978年(昭和53年)8月5日


そもそも海上保安庁の発足は、軍隊とりわけ海軍との関連性を否定するところから始まります。

大久保長官によれば、GHQから軍隊を想起させる意匠モチーフの使用が禁止されたとのこと。

そのため(ある意味において)消極的選択の結果、コンパス図柄が採用されたとも言えます。

『海鳴りの日々』における記述はここまでにとどまるのですが、その後年出版された回想録『霧笛鳴りやまず』にはもう少し詳しく説明されています。

南風にひるがえ

GHQでは海上保安庁の旗には、旭と桜、星と錨は使ってはならぬと指示した。

赤い旭は軍艦旗や聯隊れんたい旗に使われたのを指したもので、桜は日本軍国精神のシンボルと見、星は陸軍、錨は海軍を象徴したものと考えたようであった。

私に裁断を求められたので、旗の地色は海色の紺、錨の代りに船のコンパスを選びそれを紺地に白く染め抜くこととしようと提案した。

大久保武雄『霧笛鳴りやまず 橙青回想録』p247-248 海洋問題研究会 1984年(昭和59年)6月25日


そこで、海上保安庁のコンパスを考える前に、GHQによって禁止された意匠を概観しておきます。

【赤い旭】



【桜】の一例


【星】と【錨】


こうした陸軍・海軍、そして軍国精神を連想させる意匠を避けた結果、コンパスが選ばれました。

なお、桜花の使用禁止に対して大久保長官が梅の花を意匠に用いたことは有名です。

ところで、
ここで考えたいのは「なぜコンパスなのか?」という点です。

確かに羅針盤コンパスは航海の必需品であり、船の行先を示す象徴的な道具ではあります。

しかし、船舶を象徴するものとしては操舵輪、海難救助を象徴するものとして救命浮環きゅうめいふかん(うきわ)などがあります。



実際これらは現代のコーストガード機関のマークにも使われており、海上保安庁が採用していてもおかしくはなさそうです。

【操舵輪】の例


【救命浮環】の例

※インド沿岸警備隊の場合、白い円環が救命浮環を表すと公式に説明されている。

ここで再び2冊を読み返してみると、色々な制約を受けたわりには「錨のかわりに船のコンパスを」と案外すんなりと決まったように描写されています。

以下、この点をもう少し掘り下げてみます。

なぜ操舵輪や救命浮環などではなくコンパスだったのでしょうか?


コンパスマークの伝統

結論から言うと、
コンパスのマークは商船の船員養成機関の校章に由来するものと考えられます。

まず、1945年(昭和20年)の終戦当時、日本には28か所の船員養成機関が存在していました。

高等商船学校
商船学校
海員養成所
短期高等海員養成所
私立海員養成所10
参考文献:中谷三男『海洋教育史』p106 1998年(平成10年)4月15日 成山堂書店

これらの内、高級船員を養成する機関として大きな二つの学校がありました。
・【東京高等商船学校】
・【神戸高等商船学校】


両校は太平洋戦争末期に統合され、静岡県清水市に本部を置く【高等商船学校】となったため、終戦直後は一つの機関としてカウントされています。

しかし、
【東京】は1875年(明治8年)、
【神戸】は1917年(大正6年)にまでその源流をさかのぼることができる伝統校です。

その両校の校章がこちら。


左:神戸高等商船学校校章
右:東京高等商船学校校章
東京商船大学八十五周年記念会『東京商船大学九十年史』口絵 1966.4.30

こうしてみると両校ともにコンパスをモチーフをしていることがわかります。

そして、【東京】のコンパスマークついて前掲書では次のように語られています。

第二章 東京商船学校(商船学校)
第一節 官立移管前後と機構の拡充
移管の経緯

これまでの校章(三菱一錨)は海軍のそれとまぎれやすいことが指摘されて、この際三菱三錨に改めたのである。
(中略)
これは翌年四月官立移管の前提でもあったと推察せられ、この移管に際してすべての条件が一新し、三菱会社の所属を離れるために、校章も再転して羅盤八方鍼に改められた。

以来春秋を重ねること八十五年今用いられているこのコンパスマークは我が海運業界の幾変遷と近代化の激動期に耐えて、多くの先人校友達の心の糧となり、終始北を指しつづけて来た遺産ともいうべきであろうか。

東京商船大学八十五周年記念会『東京商船大学九十年史』 p197-198 1966.4.30

この記述を解説しておくと、
【東京高等商船学校】の前身は私立【三菱商船学校】と言い、当時は三菱と錨のマークを用いた校章でした。

三菱三錨←三菱一錨
東京商船大学八十五周年記念会『東京商船大学九十年史』口絵 1966.4.30



それが1882年(明治15年)に官立学校へと移管された際に、コンパスマーク【羅盤八方鍼らばんはっぽうしん】に変わったのです。

そしてこのコンパスのモチーフは【神戸高等商船学校】だけではなく、他の商船学校などでも使用されました。

実際にその当時からの伝統を引き継ぐ学校は、現在でもコンパスの校章を掲げています。

このようにコンパスのマークは錨と並んで、海・船・船員などをイメージさせるアイコンとして定着していたことがわかります。

アンチテーゼとしてのコンパス

以上の歴史をふまえて、今度は海上保安庁のコンパスマークについて考えてみましょう。

まずGHQからの注文は軍事的なイメージの排除でした。

おそらくそれはGHQからの要求であるばかりではなく、新設される海上保安庁が”帝国海軍の復活”と見られないようにする国内外へのアピールにも必要なことだったのでしょう。

庁旗デザインを検討していた当時、大久保氏は運輸省:船員局長を務めており、船員教育行政もその所掌にありました。

そんな関係から船員養成機関で幅広く使われていたコンパスマークに思い至るのは、ごく自然なことであったように思われます。

ただ本当にそれだけなのでしょうか?

ここでもう少し大久保氏の経歴をふりかえってみたいと思います。

年月日役職等年齢
1941.
11.24
内閣 企画院 第六部
第一課長
(船舶動員計画)
37
1943.
11.01
運輸通信省 大臣官房
企画局 第一課長
38
1944.
11.01
内閣 総合計画局参事官39
1945.
06.15
運輸省 中国海運局長
瀬戸内海輸送司令部幕僚長
40
1945.
11月末
運輸省 船員局長41
1946.
07.01
不法入国船舶監視本部 設置
1948.
03.20
不法入国船舶監視本部長
海上保安庁設立準備委員
43
1948.
05.01
海上保安庁長官(初代)
大久保武雄氏(1903.11.24生~1996.10.14没)年表

まず現在の国土交通省の前々々身である【逓信省ていしんしょう】の官僚であった氏は、太平洋戦争開戦の直前に内閣直属の機関【企画院】に出向しています。

ここで船舶動員計画を立案する立場として、開戦当時のことを次のようにふりかえっています。
※日本軍の真珠湾攻撃は日本時間で1941.12.08(月曜日)。

真珠湾攻撃の錯誤
狙われたシーレーン

私は、軍艦マーチで始まった大本営発表の真珠湾攻撃の放送を企画院で聞いた。課員が万歳を叫んだ。その割れるような喊声かんせいの中で、私は何か不安なかげりを感じた。
(中略)
戦争が始まって国民が勝ち戦にうかれていたとき、私は日本の船舶を大切にしなければ経済も国民生活も成り立たず、戦力に影響して危いと判断し、上司の柴田弥一郎海軍少将を通じ、海軍に「日本の商船に軍艦の護衛をつけて貰いたい」と申し入れた。

柴田少将は軍令部の話として「船を大切にするような考えでは戦には勝てない。一隻沈んだら二隻造ればよいではないか」とのことであった。

大久保武雄『霧笛鳴りやまず 橙青回想録』p214-215 海洋問題研究会 1984年(昭和59年)6月

大久保氏はこの後も南方資源の輸送を担う日本商船の護衛や、国内海上輸送力の安定を様々な立場で訴えます。

しかし、結局これに対する海軍の措置は手遅れに終わり、十分な護衛を受けられぬまま多くの民間商船が米軍の攻撃を受けて沈みました。

それはつまり先に挙げた商船学校などを卒業した船員・海員の非業の死を意味しています。

この悲劇についての証言は枚挙にいとまがありません。

【参考動画】

ドキュメント太平洋戦争 第1集 大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~|戦争|NHKアーカイブス
第1集 大日本帝国のアキレス腱 ~太平洋・シーレーン作戦~では、資源が乏しい日本の物資の補給を支えた輸送船と、アメリカの潜水艦にスポットを当てる。 太平洋戦争

↑こちらの番組39:30あたりで海防艦【志賀】が紹介されます。戦後は【PL106こじま】となり、解役後は海洋公民館として利用されました。



そして、日本はついに1945年(昭和20年)8月6日(火曜日)の広島原爆投下を迎えます。

このとき氏は中国海運局長(広島市)の任にあり、たまたま出張の用で離れていたために難を逃れました。

しかし、原爆によって部下や同僚を失い、爆心地の警備本部に通い詰めたため自身も軽く被爆しています。

こうした惨状を目の当たりにした大久保氏は、敗戦の原因について次のように喝破しました。

敗因は原爆ではなかった
シーレーンの壊滅

私が数年前『海鳴りの日々』を出版したのは、日本は海洋を捨てては立ち行かない。船がなければ国力もない。シーレーンの保護が大切である。

日本は原爆で負けたのではない。原子爆弾が投下される前に国力が底をついていたのだ。

日本は海洋国との友好のきずなを切ってはならないという日本存立の原点を指摘したかったからであった。

大久保武雄『霧笛鳴りやまず 橙青回想録』p232-233 海洋問題研究会 1984年(昭和59年)6月25日


それでは、
以上のような体験をふまえて大久保氏がコンパスを選んだ意味とは――?

もちろん先に見たように世間的に認知されたマークであったことが大きいでしょう。

しかし、
それは錨や桜の使用禁止による消極的選択ではなく、海上輸送・民間船員の軽視に対するアンチテーゼとしての帰結ではないでしょうか。

そして、もし仮にGHQからの制約がなかったとしても、現在のコンパスマークに似たデザインが選ばれたのではないか。

…実のところ庁旗デザインの選考にかかる証言は、大久保長官の2冊に語られているのみで海上保安庁公式資料(〇〇年史)などには見当たりません。
※もし資料・証言の心当たりがありましたらお知らせください。

このため長官の真意は戦後に残された言葉などから推測するしかないのです。

しかし、
私にはあの紺青色に、海洋国家に生きる者としての深い反省が込められているように感じます。

そして、あの真白きコンパスは新生日本の気概と指針を表している。

大久保長官の半生をふりかえると、そんなふうに思えてなりません。



戦没船員の碑(2024.5.15管理人撮影)

安らかにねむれ わが友よ
波静かなれ とこしえに

上記写真は神奈川県 観音崎公園の丘に建立された【戦没船員の碑】。

(公財)日本殉職船員顕彰会により例年5月に同地で追悼式が行われている。

海上保安庁の旗上げ


さて。
時に1948年(昭和23年)5月1日(土曜日)。

『海上保安庁法』(旧法)が施行され、海上保安庁の歴史がここから始まります。

そして、この庁法第4条によって船舶への国旗・庁旗掲揚が規定されました。

海上保安廳法
昭和23年4月27日公布

第四條
(前略)
海上保安廳の船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を附し、國旗及び海上保安廳の旗を掲げなければならない。

海上保安庁法 – 法令データベース (nagoya-u.ac.jp)

同時に庁旗を規定した制式令も施行され、海上保安庁のデザイン史もこれが出発点となります。

海上保安庁旗制式令
昭和23年政令第97号
海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第4条第3項の規定による海上保安庁の旗の制式は、別図の通りとする。

附則
この政令は、海上保安庁法施行の日から、これを施行する。

別図
一 地色 紺青色
二 コンパス 白色
 (対角線及び稜線は地色と同じ)

注:当該『制式令』は昭和26年(1951年)5月20日に廃止。同日『海上保安庁の旗の制式の制定に関する件』が新たに制定され、現在まで適用されている。

海上保安庁旗制式令・御署名原本・昭和二十三年・政令第九七号 (archives.go.jp)

この庁旗が海上保安庁本庁の庁舎に掲揚されたのは同年5月12日(水曜日)のこと。

昭和23年5月
大久保武雄初代海上保安庁長官による庁旗掲揚

『かいほジャーナル』第76号【特集】海上保安制度創設70年の歩み p3より

かいほジャーナル|海上保安庁 (mlit.go.jp)

当時の本庁庁舎は厚生省敷地内にあり、元々そこは海軍省の跡地でもありました。

海軍省は現在の農林水産省と厚生労働省の敷地にまたがる広大な庁舎を有しており、その東側部分(日比谷公園側)にあった航空本部の空間に海上保安庁の長官官房保安局が置かれたのです。
・長官官房…現在の本庁総務部に相当
・保安局…現在の本庁警備救難部に相当

同年、
1948年(昭和23年)11月、長官官房を同敷地内の旧海軍【東京通信隊】庁舎に移設。

1957年(昭和32年)4月、現在の農林水産省の構内南側に本庁全体(水路部除く)が移転。

そして、
1973年(昭和48年)1月に現在の国土交通省庁舎(中央合同庁舎第3号館)の8階~11階部分が完成するとともに、こちらへ再移転し現在に至っています。



厚生労働省
東京都千代田区霞が関1丁目2-2

海軍省跡・軍令部跡碑


農林水産省
東京都千代田区霞が関1丁目2-1


国土交通省
東京都千代田区霞が関2丁目1-3


なお、
創立当時の庁旗は【海上保安大学校】内の【海上保安資料館】に残されています。

海上保安庁は昭和23年に発足し、同年5月12日、初代長官である大久保武雄氏により庁旗が掲揚されました。以後この日を「開庁記念日」として定め、平成12年に「海上保安の日」と改めました。 写真は、開庁された当時の海上保安庁庁旗です。

(公財)海上保安協会【公式】 X (twitter.com)

コンパスと旭光の謎

以上、
ここまでコンパス旗のデザインについて、海上保安庁の創設とその後を通して見てきました。

そこに大久保長官の深い思いが込められていることは、ご理解いただけたかと思います。

しかし、最後に一点だけ私から指摘しておきたいことがあります。

それは前述した『海鳴りの日々』にある一文についてです。

桜と星と錨の追放

(前略)海色の紺青の地に、船のシンボルであるコンパスを使うこととした。

また海上保安庁は治安の任務をもつので、警察マークの旭光を、コンパスの間からのぞかせた。

紺青の地にコンパスを白で染め抜いて海上保安庁のスマートな旗ができあがった。

大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』p72 海洋問題研究会 1978年(昭和53年)8月5日

サラッと挿入されているこの「警察マークの旭光」について、私は長年疑問を持っていたのです。

そもそも同書を読んだ当初は、コンパス図柄の最も後背にある小さな鋭角のことを指しているのだと思っていました。

ただ、これは羅針盤である以上、北北東や西南西などの細かい方位を示している部分だと考えるべきでしょう。

そうすると大久保長官の言う「警察マークの旭光」とは何か?

まず警察マークとは警察が使用していた意匠:日章または旭日章、朝日影のことだとはわかります。

しかし、旭光らしきデザインは庁旗の中に見当たりません。

私は庁旗デザインが時代の途中で変化したのかとすら考えましたが、先ほどの初めて掲揚された庁旗を見ても現在と変わりがないのです。

結局、この答えがわかったのは南極調査船【宗谷】船内の資料室においてでした。

船内に展示されていた【宗谷】竣工記念誌の表紙に、まさにコンパスの間から旭光がのぞくマークが描かれていたのです。

そして、これを改めて調べてみると、過去に廃止された【職員き章】であることがわかりました。

南極調査船「宗谷」竣工記念
昭和三十一年十月十七日
海上保安庁

職員き章(廃止済み)

『海上保安庁50年史』p263によると、この職員徽章きしょうは庁旗が初めて掲揚された日の3年後、1951年(昭和26年)5月12日に制定されたもの。

ただし、理由は不明ながら1961年(昭和36年)6月10日に廃止されています。

一方、『海鳴りの日々』の初版発行は1978年(昭和53年)8月5日。

これは私の推測ですが、大久保長官が同書を執筆するに当たり、庁旗と職員き章のデザインを混同してしまったのではないかと考えます。

と言うのも、
1984年(昭和59年)6月25日に初版発行された『霧笛鳴りやまず』に旭光のことは記述されていないからです。

おそらく『海鳴りの日々』の後、事実の相違に気づいたため『霧笛なりやまず』では言及していないのではないでしょうか。

このように、
大久保長官の著書は庁史研究における必須の資料であるが故に、他の公式資料との突合検証が必要なのではないかと考える次第です。

忘るまじ”海鳴りの日々”

さて、
今年もまもなく5月1日、そして5月12日の記念日が訪れようとしています。

かつて廃墟と化した東京:霞が関。

その中から海上保安庁が生まれ、五月の晴天に庁旗がひるがえりました。

それから75年後の2023年、世界80ヵ国のコーストガード機関が東京に集結。

海上保安庁と日本財団が主催する【世界海上保安機関長官級会合】に参加するためです。

今や海上保安庁は世界中の海の平和と秩序に貢献する存在に成長しました。


しかし、その始まりに何があり、初代長官がどんな気持ちで庁旗を掲げたのか。

今度、皆さんが各地の海上保安部・全国の巡視船艇にひるがえるこの旗を仰ぎ見るとき、ぜひそのことに思いを馳せてみてください。

海上保安庁が入居する国土交通省庁舎

海上保安庁本庁に掲揚された庁旗

PLH41みずほ にひるがえる庁旗



【参考文献】
《大久保武雄氏 関係》
・大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会 1978.8.5
・大久保武雄『霧笛なりやまず 橙青回想録』海洋問題研究会
1984.6.25
・大久保武雄『戦争と輸送力(翼賛壮年叢書 第19輯)』大日本翼賛壮年団本部 1943.3.25

《商船学校 関係》
・中谷三男『海洋教育史』成山堂書店 1998.4.18
・中谷三男『海洋教育史(改訂版)』成山堂書店 2004.6.28

・神戸高等商船学校『神戸高等商船学校創立十五周年記念誌』1935.9.26
・東京商船大学八十五周年記念会『東京商船大学九十年史』1966.4.30

《徴用船員 関係》
・NHK取材班『太平洋戦争 日本の敗因1 日米開戦勝算なし』角川ソフィア文庫 1995.5.23
・宮本三夫『太平洋戦争 喪われた日本船舶の記録』成山堂書店 2009.3.28
・全日本海員組合『海なお深く 徴用された船員の悲劇(上下巻)』成山堂書店 2017.7.20
・堀川惠子『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社 2021.7.5

《海上自衛隊 関係》
・読売新聞戦後史班『「再軍備」の軌跡』中央公論新社 2015.4.23
・NHK報道局「自衛隊」取材班『海上自衛隊はこうして生まれた 「Y文書」が明かす創設の秘密』日本放送出版協会 2003.7.30
・手塚正己『凌ぐ波濤 海上自衛隊をつくった男たち』太田出版 2010.8.15


《海上保安庁 関係》
・海上保安庁総務部政務課『十年史』平和の海協会 1961.5.12
・海上保安庁総務部政務課『海上保安庁30年史』(財)海上保安協会 1979.5.12
・海上保安庁の思い出編集委員会『海上保安庁の思い出』(財)海上保安協会 1979.5.12
・海上保安庁50年史編纂委員会事務局『海上保安庁50年史』海上保安庁 1998.12
・10年史編纂委員会事務局『海上保安庁激動の十年史 海上保安制度創設60周年記念』2008.9
・海上保安新聞編集長 松田雄三『海上保安庁の先達たち あの時・この時60年』(財)海上保安協会 2009.4.22


海上保安庁音楽隊「LIMIT OF LOVE 海猿」~「海猿」のテーマ~ 2019/03/08

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