掃海船MS14号と幻の煙突マーク

ウミネコとコンパス章

海上保安庁の煙突ファンネルマーク【コンパス章】。
実はこれ以前に別のマークがあったことをご存知でしょうか?

はじめに

掃海艇「MS14」

神戸新聞社『神戸新聞NEXT』連載・特集 シリーズ 戦争と人間
第9部 極秘裏の掃海隊【1】平和憲法下の特殊任務
 より

【1】平和憲法下の特殊任務|シリーズ 戦争と人間|連載・特集|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

みなさんはこのフネをご存知でしょうか?

これは海上保安庁の掃海船【MS14】です。

掃海船とは海に敷設ふせつされた機雷を除去する船のこと。

そして海上保安庁は発足の当初、日本沿岸に残された機雷の掃海も任務としていました。

つまり【MS14】はこうした任務に従事する船の一隻だったのです。


さらに昭和25年(1950年)、【MS14】は朝鮮戦争海域に派遣されました。

そこで掃海作業中に機雷爆発に巻き込まれ、
大破沈没。

海上保安官一名の殉職者を出すという悲劇に見舞われた船でもあります。

MS14触雷地点図

それにしても…。

【MS14】には今日こんにち“海上保安庁のフネらしさ”が感じられません。

それはこれまでの巡視船デザイン史シリーズで見てきた、

JCGロゴ

S字章

コンパス章

…が見当たらないためです。

しかし、【MS14】の煙突には見慣れない2本の横線があります。

煙突拡大図


実はこれは短期間だけ使用された海上保安庁の煙突ファンネルマークなのです。

ということで、
今回は幻のマークと、悲劇の掃海船【MS14】についてご紹介していきます。

戦中生まれのフネ

そもそも【MS14】は日本海軍によって建造されたフネです。

戦時中の昭和19年(1944年)に、
第一号型駆潜特務艇くせんとくむていの第202号として生まれました。

この特務艇は日本沿岸に出没する水艦を逐するのが目的でしたが、戦後は【掃海船】として使用されることになります。

というのも木造船であったことから、鉄に反応する磁気機雷に対処することができたため。

その他にも【巡視船】(PB:Patrol Boat)として使用された他の特務艇もあり、海上保安庁草創期の船艇の主力として重宝されました。

なお、
【MS】はMine Sweeperの略号で、そのまま「機雷掃海」を意味するようです。

このように、
戦中生まれの駆潜特務艇(駆特くとく)は【MS14】の船番号を与えられ、他の新生・海保船艇とともに活躍したのでした。

掃海船MS19

【第一号型哨戒特務艇】と呼ばれる一回り大きいサイズ。

第八十四号哨戒特務艇 – Wikipedia

第一号型
駆潜 特務艇
第一号型
哨戒 特務艇
略称駆特くとく哨特しょうとく
全長29.20m33.25m
掃海船
リスト
MS01~MS17

計17隻
MS18~MS30

計13隻

暗黒の海

それでは、改めて終戦直後の日本の海はどのような状況だったのでしょうか?

これについて大久保武雄:初代長官は次のように述べています。

錨を上げよ ― 海上保安庁
焼けあとにへんぽんと…

がんらい、一万カイリにもおよぶわが国の沿岸水域は、複雑な海岸線と気象海象の急激な変化によって世界屈指の海難多発海域とされているが海上保安機能に加えられた戦争の打撃はまさに致命的であった。

そのうえ、日本が敷設した繋留機雷55,347個、米国のB29および潜水艦が敷設した感応機雷10,703個が日本近海の水路や主要港湾を覆い、多数の沈船や密航者が放棄した船舶とともに、船舶の航行を脅かしていた。

大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』昭和53年8月5日初版p60

このように戦時中に日米双方の機雷が主要航路・主要港湾に残されており、海上犯罪の横行と相まってまさに「暗黒の海」とも呼べる状況でした。

これに対して、機雷掃海を任務としていた日本海軍(海軍省)は昭和20年11月末に解体され、その後は

第二復員省

復員庁:第二復員局

運輸省


海上保安庁


…へと機雷掃海任務は引き継がれていくことになります。


この内、
復員庁:第二復員局時代(S21(1946)6.15~S22(1947)10.15)の映像資料が残されています。

掃海作業すすむ 下関|ニュース|NHKアーカイブス
戦争中投下された磁気機雷、水圧機雷は全国で約1万。これを処分して航路を安全にするために、下関では連日掃海隊が出動してゆきます。3隻の船が一体となり浮きをつけた電線を菱形に投げて電気を送り機雷を爆発させます。これは第2復員局の手によって行なわれていますが、かなり危険な作業で、全国にばらまかれた機雷を全部処分するにはあと数...

驚くべきは機雷爆発のすさまじさ。

当時このような機雷が多数残されており、海上輸送を脅かし戦後復興の妨げとなっていたわけです。

この脅威に対して、約30mほどの木造船で立ち向かうのは文字通り「命がけ」だったのだと感じさせられます。

幻の煙突マーク:紅線二条

さて。
以上のように機雷掃海が続けられていた昭和23年(1948年)年5月1日、海上保安庁がついに発足します。

同日『海上保安庁法』が施行され、さらに『海上保安庁旗制式令』に基づいたコンパスマークの旗が船艇に掲げられることとなりました。

ただし、この時点ではまだファンネルマークをはじめとする船艇デザインの定めはありません。

したがって、この時点では海保所属を示す外観デザインは庁旗船番号・船名表記だけだったようです。

こうした中、
初めて統一的な船艇デザインが定められたのが同年の昭和23年(1948年)8月20日『運輸省告示』においてでした。

発足から3か月と20日後のことです。

『運輸省告示』第230号
昭和23年(1948年)8月20日


第三条
海上保安庁の船舶の標識は、次の通りとする。

船体は薄ねづみ色とし、舷墻げんしょう以上上部構造物(マストを含む。)は、白色とする。

煙突は、その最上端を黒色とし、その他の部分は、これを黄色に塗色し、且つ、上部に紅線二条を塗色する。

別図
S23.8.20『官報』第6480号p156

まず舷墻げんしょうとは、
「甲板の両舷側に設けた鋼板のさく。人の転落や波浪を防ぐもの。」のこと。


そしてここで注目なのが煙突ファンネルデザイン。



最上端を黒色
その他の部分は黄色
上部に紅線二条

…というかなり目立つ、
というか警戒色そのもののカラーリングだったようです。

現在の紺と白を基調とした、さわやかなデザインとはずいぶん違うことがわかります。


なお、この時代の船艇の写真について私は白黒写真でしか見たことがありません。

そこで先ほどの『運輸省告示』に着色してみました。

それがコチラ↓


素人のつたないベタ塗りで恐縮ですが、なんとなくイメージはつかめるのではないでしょうか?

ちなみに舳先へさき部分の網目が何を示しているのかわかりませんでした。
現在であれば防舷のためのゴム素材かなと思うのですが…。

なお、
このファンネルマークの名称も不明です。

たとえば横線2本と言えば、日本郵船(株)のファンネルマーク二引にびき】が有名です。

元々は家紋の名前として使われる名称なので、海上保安庁のそれも「二引き」と呼んで差し支えない気はします。

しかし当時そのように呼ばれていたか確証がありません。

そこで当サイトでは便宜上【紅線二条】と呼ぶことにします。

初代長官が観た紅線二条

海上保安庁のできごと
1948
S23
05/01:海保発足、庁旗制定

05/12:庁旗掲揚
→開庁記念日

08/20:紅線二条制定

10/19:神戸沖で観閲式
1949
S24
05/04:東京湾で観閲式

12/12:【宗谷】海保に編入
1950
S25
03/31:大阪湾(洲本沖)で
天皇親閲式

05/10:コンパス章制定
→4/1遡及適用
1951
S26
11/08:【宗谷】南極出航


巡視船デザイン史の初期年表をまとめてみました。

こうしてみると【紅線二条】はわずか約1年9か月の使用だったことがわかります。

そのためか今となっては紅線二条船の写真を見かけることはほとんどありません。

それも白黒写真ばかりなので、もしカラー写真が残っていればかなり貴重と言えるでしょう。

さて、
そんなごく短期間でしたが紅線二条船たちも海上保安庁長官の観閲を受ける機会がありました。

1948年10月、海上保安庁初の閲艇式に参加するため神戸港を出港中の同庁掃海船群。

第八十四号哨戒特務艇 – Wikipedia


特に、発足初年の10月に行われた観閲式は掃海部隊を激励するためのものでした。

このことは『海鳴りの日々』に記されています。

日本再建の支柱 ―掃海隊の業績
米海軍を驚嘆させた日本掃海隊の成果

昭和23年10月19日、午前8時檣頭しょうとう高く海上保安庁旗を掲揚、観閲官である私は、MS24号艇に乗艇、掃海隊はいっせいに神戸港を出港し、港外において掃海艇18隻が陣形運動の観閲を受けた。

(中略)
12時神戸海上保安本部に艇長以上を参集させ、私から日頃の労苦をねぎらい、バーンズ中佐より祝辞があった。

バーンズ米掃海隊指揮官は、私に、「日本掃海隊の技倆ぎりょうは優秀である。今まで日本掃海隊の掃海完了区域での事故は皆無である」と語った。

大久保武雄『海鳴りの日々 かくされた戦後史の断層』昭和53年8月5日初版p156-157


このように日本海軍から引き継がれた機雷掃海の技量は、アメリカ海軍からも高く評価されていたのです。

大久保長官ほか観閲者らの目には、コンパス旗と【紅線二条】の船隊が頼もしく映ったことでしょう。

また、撮影時期は不明ながら海上自衛隊が編纂した資料の中にも、【紅線二条】掃海船の写真が掲載されています。

掃海船艇の集結

撮影時期不明
おそらくは下関基地?

海上自衛隊『朝鮮動乱特別掃海史』本紙改訂版p43(pdf版p47)より

掃海部隊の歴史 | 掃海隊群ホームページ (mod.go.jp)

なお、機雷掃海任務はその後海上自衛隊に引き継がれています。

そのため、現在【紅線二条】の写真は、海上保安庁史のみならず海上自衛隊史の資料の中にも残されているのです。

Just a moment...

朝鮮戦争と日本特別掃海隊


さて、
話を【MS14】に戻します。

大阪~下関間の掃海が一段落した後、他の地方でも掃海作業が続けられていた頃。

ことの発端は、
昭和25年(1950年)6月25日。

北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻を開始したことにより、朝鮮半島全土が戦場と化しました。

この朝鮮戦争の過程でアメリカ海軍の要請に基づき、海上保安庁の掃海部隊が朝鮮海域へと出動することとなったのです。

そして当時は呉基地にいた【MS14】も、他の掃海船とともに山口県下関市・唐戸からと桟橋に集められました。

S25年(1950年)の出来事
05/10:コンパス章制定
→4/1遡及適用
06/25:北朝鮮軍、侵攻開始
06/28:ソウル陥落
08/10:警察予備隊発足
09/28:ソウル奪還
10/02:海上保安庁に出動要請
10/04:下関に掃海隊集結
10/07:日本特別掃海隊出港開始
10/17:MS14号触雷
10/20:平壌陥落
10/26:韓国軍、鴨緑江到達
11/01:中国軍、大規模攻勢開始
12/05:中朝軍、平壌奪還
12/09:下関にて掃海隊慰労式

急遽、各地から呼び集められた掃海船乗組員たちは、朝鮮半島での機雷処理に参加することを命じられます。

しかし、こうして編成された【日本特別掃海隊】は極秘裏の扱いとされ、派遣される掃海船に日章旗・海上保安庁旗を掲げることは許されませんでした。

1 急きょ下関集結
(2) 特別掃海隊編成
イ 出動命令受領

翌7日、海上保安庁長官から朝鮮水域において特殊任務に従事する日本掃海隊を特別掃海隊と呼称するとの指示が出た。

さらにCNFE(※)からの指示に基づき各艇出港までに、船名及び隊番号等を示す船体マークは全て消し、朝鮮水域においては日本国国旗をおろし、E旗をメインマストに掲揚することが定められた。

※Commander, Naval force, FarEast
アメリカ極東海軍司令部

1950年元山特別掃海の回顧 (googleusercontent.com)

その代わりに、国際信号旗のE旗を燕尾に切り取った【日本商船管理局旗】を掲げて行動するよう指令を受けたとされています。

日本商船管理局旗

連合国軍占領下の日本 – Wikipedia

日本特別掃海隊のファンネルマーク

以上のことは大久保初代長官の『海鳴りの日々』や、海上自衛隊の資料にも広く記述されています。

では、
庁旗・船名・船番号の非表示はわかったものの、【日本特別掃海隊】船艇のファンネルマークはどうなったのでしょうか?


その手がかりとなる【MS14】の写真が、やはり海上自衛隊が編纂した資料に残されています。

海上自衛隊『朝鮮動乱特別掃海史』本紙改訂版p57(pdf版p61)より

掃海部隊の歴史 | 掃海隊群ホームページ (mod.go.jp)


この写真の撮影日時・撮影場所は不明です。

しかし写真を拡大してみると、コンパスマークらしきものが写っています。

拡大写真

少なくとも【紅線二条】ではありません。


そもそも。
以前の記事で取り上げた【紅線二条】に代わる【コンパス章】が制定されたのが、朝鮮戦争が始まる前の昭和25年5月。

さらに少しややこしいのですが、この規定の内容は同年4月にさかのぼって適用することとなっていました。


そして、この規定の通り海上保安庁へ編入・改装中だった灯台補給船【宗谷】は同年4月1日の就役当初からコンパス章を掲げています。


ということは【MS14】を含めた他の既存船も、ファンネルマークを順次【コンパス章】に変更していったはずです。

実際に、
【MS14】の僚船として行動していた【MS03】の甲板長だった方の言葉が次のように紹介されています。

【6】海保マーク外し、北へ進む

大久保武雄・初代海上保安庁長官の回顧録「海鳴りの日々」によると、連合国軍総司令部(GHQ)が50年10月6日、日本政府に出した指令では「(掃海任務の)船舶の標識は、万国信号E旗(特殊任務)を掲げること」とされている。占領下の当時は、領海外で日の丸を掲げることは許されていない。ただ、隠すものは他にもあった。

掃海艇には海上保安庁のマークが溶接か何かで付いてたんですけど、それを外した覚えがあります。
『極秘の任務だ』と耳にした記憶はないんですが、あまりしゃべるなという雰囲気はひしひしと感じてましたね」

【6】海保マーク外し、北へ進む|シリーズ 戦争と人間|連載・特集|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)


現在の巡視船も同様ですが、煙突外壁にコンパスの絵が描かれているわけではありません。

実はコンパスのプレート(板)が煙突に取り付けられているのです。

例:【宗谷】のコンパス章

コンパスプレートの裏側の羽根をネジ止めしている

先ほどの証言にある「溶接か何かで付いていた海上保安庁のマーク」とは、このコンパスプレートのことだと思われます。

そして、その部分だけを外して特別掃海任務に当たった、ということでしょう。

このことから逆算して、
先ほどの写真は【MS14】が【コンパス章】に置き換えられた後、沈没するまでの間に撮影されたものと推測できます。

闇夜の出港


まとめると、
【MS14】ほか日本特別掃海船隊の外観は次のようでありました。

・国際信号旗E旗を掲揚
・船番号を塗抹
・ファンネルマークは紺青地のみ

こうした秘匿処置について、【日本特別掃海隊】の指揮官付補佐官だった方が以下のように証言しています。

第二章 見切り発車
闇の部隊への”ビックリ”手当

「日の丸を下ろして、E旗を揚げろということになったんですね。MSのいくらと船体に書いてあったんですが、それも消させられました。

(中略)
仮に公海上や他国の領海で密輸船やスパイ船と誤認されて、ひどい扱いを受けても仕方ない、ちゅうことです。
情けない任務を強いられたという気持ちを持ったのは事実ですね」

城内康伸『昭和二十五年 最後の戦死者』小学館2013.12.9 p74


このシリーズで見てきたように、海保のフネは様々な装飾を施して「海上保安庁ここに在り!」と内外に訴えてきました。

そのことに比べると、日本特別掃海隊の隠密行動がいかに特異なことかがわかります。

とにかく、
こうして【MS14】は総指揮船【MS62ゆうちどり】に従いつつ、唐戸桟橋から人知れず出航します。

時に昭和25年(1950年)10月8日未明のことでした。

それは翌年に【宗谷】が大勢の市民に見送られながら南極へ向かったのとは対照的な、とても寂しい船出でした。


そして10月17日、
現在の北朝鮮・元山市ウォンサンしの沖で掃海作業中の【MS14】が触雷。

船は機雷の爆発により大破沈没し、同船の烹炊員ほうすいいん:中谷坂太郎氏が殉職されました。

烹炊員とは船での調理担当であり、中谷氏は当時21歳だったとのこと。

現在で言えば、
主計士補に相当する若さです。

結局、
この【MS14】の遭難と中谷氏の殉職もまた長らく秘匿され続けました。



掃海殉職者顕彰碑
昭和二十七年六月
内閣総理大臣 吉田茂

上記写真は金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)境内にある掃海殉職者の顕彰碑。

掃海業務に殉じた方の功績をたたえるとともに、海上交通の安全を祈念する追悼式が毎年5月末に行われている。

おわりに


以上、
海上保安庁草創期のファンネルマーク【紅線二条】と、【MS14】についてでした。

平和な現在では、日本の海に機雷が残されていたことを知らない人も多いかと思います。

そして、海上保安庁の船には【コンパス章】の他にもう一つのファンネルマークがあったことも。

その幻の【紅線二条】を掲げた掃海船たちと、命がけの掃海任務に当たった方々の努力を忘れないようにしたいものです。

関門橋を望む唐戸桟橋
2023.4管理人撮影

ページ船舶種別
番号
船名
1p36巡視艇
CL37
黒滝
2p36巡視艇
CL40
春風
3p45救難曳船
STR04
海光かいこう
4p45巡視艇
CS101
さくら丸
5p52測量船
HG03
第一
天海丸
6p56灯台補給船
LT01
第十八
日正丸
7p65掃海船
MS03
→はつたか
8p66掃海船
MS19
→つるしま
9p67掃海船
MS31
榮昌丸
『海上保安庁全船艇史』紅線二条の写真一覧


【参考文献】
福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨 復刻版』光人社2011.1

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